楽しい御朱印めぐり

御朱印めぐりの旅

日本三景 安芸の宮島・陸前松島・丹後天橋立 御朱印めぐり

日本三景 厳島神社・瑞巌寺・智恩寺 御朱印めぐり

 

日本三景は、江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者、林春斎が「日本国事跡考」において、 卓越した三つの
景観として紹介したのが始まりのようです。

この日本三景、安芸の宮島、陸前松島、丹後天橋立にある主な寺社を巡る御朱印めぐりを紹介します。

 

 

安芸の宮島 厳島神社

 

 

厳島神社は、広島県廿日市市、広島湾に浮かぶ厳島(宮島)にある神社です。

 

 

 

 

創建は、推古天皇元年(593)と言われています。厳島とは、「神に斎く(いつく)島」といわれるように、
島全体が神の島として崇められ、陸地では畏れ多いと海中に社が建てられたそうです。

平清盛が久安二年(1146)安芸守に任官され、以来平家の氏神として尊崇が始まり、平家一門の権力が増大
するにつれて、社殿を現在の姿に造営されました。

 

 

 

 

 

 

厳島神社の主要な社殿は、厳島の北東部、有浦と呼ばれる湾の奥に建っています。湾のもっとも奥まったところに
宗像三女神を祀る本社が北を正面として建っています。本社社殿は奥の本殿と手前の拝殿の間を幣殿でつないで
全体を1棟とする形式であり、平安時代の寝殿造りを神社建築に応用した朱塗りの雅やかな造りになっています。

社殿は、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に指定されています。

 

 

 

 

 

 

安芸の宮島 大願寺

大願寺は、厳島神社の西隣に位置する高野山真言宗の寺院です。

開基は高野山を開いた空海という説もありますが定かではありません。建仁年間(鎌倉時代)に僧了海によって、
再興された寺と言われています。

 

下の写真は、山門になります。

 

 

 

 

本尊は薬師如来と神仏分離令によって、明治の初めに厳島神社から遷された“弁財天”になります。
神仏習合の時代は嚴島神社の主神・市杵島姫令が理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁才天と
同一視されてきたそうです。

この弁財天は、日本三大弁財天の一つに数えられています。

 

本堂は、江戸時代の元禄年間に建てられたものになるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

陸前松島 瑞巌寺

 

松島は、宮城県仙台湾の北側にある松島湾一帯の総称で、松島丘陵が地震などで沈降してできた溺れ谷に、
大小260あまりの島が点在する景勝地です。

 

 

 

 

瑞巌寺は、松島海岸駅から徒歩7,8分、松島町にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

山号は松島青龍山、本尊は聖観音菩薩になります。

寺の沿革によりますと、創建は天長五年(828)、慈覚大師円仁により開かれた延福寺(後に円福寺)が始まりと
言われています。

江戸時代に入って、伊達政宗が衰退していた円福寺の復興を思い立ち、慶長九年(1604)から十四年にかけて国宝
の桃山建築様式の本堂をはじめとする伽藍整備を進めたそうです。海岸沿いを通る国道45号線を進み、松島中央広
場の信号を左折するとすぐに総門になります。

総門は、慶長十四年(1609)、伊達政宗によって建立されたものです。中央の扁額には海辺に建つ禅の林(寺)
「桑海禅林」と書かれています。

 

 

 

 

総門をくぐりますと参道がまっすぐに伸びています。参道の右手の道沿いには洞窟群があります。
これら洞窟群は、 納骨や供養のために、 鎌倉時代から江戸時代にかけて掘られたものだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

拝観受付から入りますと、本来は正面の幅が39mもある堂々とした国宝の本堂が見えてきますが、現在平成の大修理中、平成21年から28年春まで非公開になっています。

写真は、本堂に隣接する同じ国宝の庫裡になります。庫裡は禅宗寺院の台所になりますが、存在感ある大きな建物で、彫刻などが施されています。

 

 

 

 

 

現在、庫裡の裏にある大書院であった所が仮本堂になっていて、こちらで、本尊の“聖観音菩薩”などを真じかで
見ることが出来るようになっています。

訪れたのが5月末、本堂手前の大きな杉の木の高所(写真下)に、岩や樹木に着生する性質があるという日本蘭の
一種“石斛(せっこく)”が薄いピンクの花を咲かせていました。

 

 

 

 

 

いただいた御朱印は、本尊の「聖観音」と書かれていました。

 

 

 

 

 

陸前松島 五大堂

 

瑞巌寺の総門を出て、国道45号線を渡ると中央広場、その目の前に現れるのが松島の景観を代表する「五大堂」になります。

 

 

 

 

伝承によりますと、創建は大同二年(807)、坂上田村麻呂がアテルイなどと戦った時、毘沙門堂を建立
したのが始まりだそうです。

そして、瑞巌寺の開山でもある円仁が五大明王像を安置したことから「五大堂」と呼ばれるようになったそうです。

なお「五大堂」は寛永十三年(1636)、瑞巌寺の管理下に入ったそうです。

 

現在のお堂は、慶長九年(1604)伊達政宗が瑞巌寺の再建に先だって建立したもので、東北地方最古の桃山
建築になるそうです。

 

五大堂は松島湾に浮かぶ小島に建てられたもので、すかし橋 と呼ばれる朱塗りの橋を渡っていきます。
この橋は、橋げたの隙間から海が見えるようになっていて、五大堂へ渡る際に足元を見て気を引き締めていくように、
隙間をつくってあるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

なお「五大明王」と書かれた五大堂の御朱印は、瑞巌寺の方でいただくことになります。

 

 

 

 

 

丹後天橋立 智恩寺

 

天橋立とは、京都府宮津市にある宮津湾と内海の阿蘇海を南北にへだてる全長3.6キロメートルの砂州を言います。

 

 

 

 

 

 

 

白砂と黒松が織りなす景観は、日本三景の一つに数えられていて、平安時代の歌人、小式部内侍(和泉式部の娘)

の歌にも「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」とうたわれているほどです。

砂州の中ほどには、不思議な事に日本名水百選に選ばれている「磯清水」という真水が湧いていて、平安時代に

和泉式部が「橋立の 松の下なる磯清水 都なりせば 君も汲ままし」という歌を残しています。

 

 

 

 

 

下の写真は、天橋立ビューランドから見た風景、その下が股のぞきをしてみた龍が天に舞い上がる姿に見える

「飛龍観」になります。

 

 

 

 

 

智恩寺は、「天橋立」のたもと、京都府宮津市にある臨済宗の寺院です。

山号は天橋山、本尊は文殊菩薩になり、日本三文殊の一つになります。

 

山門は明和四年(1767)に再建されたもので、再建にあたって後桜町天皇から黄金を下賜されたことによって

「黄金閣」と称されています。

 

 

 

 

 

本堂である文殊堂は、中世に建てられたものを江戸時代初期に大規模修理をして現在につたえているものだそうです。

 

 

 

 

 

多宝塔は、室町時代に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

 

境内の多宝塔の近くには三体の石仏が立っています。この石仏は、雪舟が描いた「天橋立図」にも描かれているそうです。

 

 

 

 

 

いただいた御朱印には、「文殊大士」と書かれていました。

 

 

 

 

 

丹後天橋立 籠神社

 

籠神社は、天橋立の北浜、京都府宮津市にある丹後の国一宮に列せられる神社です。

「元伊勢籠神社」とも称され、伊勢神宮と密接な関係があった神社になります。

主祭神には、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神を、神代の時代に丹後にお祀りしたと伝えられる彦火明命

(ひこほあかりのみこと)を祀っています。

 

 

 

 

 

社の紹介によりますと「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出て伊勢の現在の内宮に鎮座されるまで、皇女が
天照大神の籠もられた御神鏡を持ち各地を巡幸したそうです。その時、一時的に天照大神をお祀りした二十
数カ所の宮々のことを元伊勢というそうです。

また、今から1500年ほど前に、丹後国の魚井原(まないはら)にいた丹波道主の娘・八乎止女がお祀りする
豊受大神が、天照大神の食事を司る神として伊勢(外宮)に迎えられたそうで、この丹波の魚井原で豊受大神
をお祀りしていた宮(現在の籠神社、奥宮真名井神社)のことも「元伊勢」と云うそうです。

 

一の鳥居、ニの鳥居を抜けると神門になります。

 

 

 

 

 

神門の前に立つ石造の狛犬は、安土桃山時代の作で国の重要文化財に指定されています。写真は阿形の狛犬になります。

 

 

 

 

 

本殿は凛々しい神明造りで、現在のものは弘化二年(1845)に再建されたものになります。

 

 

 

 

 

いただいた御朱印には、「元伊勢宮」と書かれていました。

 

 

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