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御朱印めぐりの旅

奈良 吉野神宮・世尊寺・壷阪寺 御朱印めぐり
地域:

吉野神宮・世尊寺・壷阪寺 めぐり

 

この記事では、吉野神宮、世尊寺そして壷阪寺をめぐる吉野・大淀界隈の御朱印めぐりを紹介しています。

吉野神宮  

吉野神宮は、奈良県吉野町にある後醍醐天皇を祭神とする神社です。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して
建武中興を成し遂げましたが、足利尊氏に追われ、吉野山に遷幸され、吉野朝廷(京都の北朝に対して
南朝という)を樹立しましたが、吉野の地で亡くなっています。

創建は明治二十五年(1892)になります。その時に後醍醐天皇の子、南朝の後村上天皇が自ら刻まれた
と伝えられる後醍醐天皇の尊像が御神体として吉水神社から移され、吉野神宮に祀られました。
本殿・拝殿・神門は、後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の
方角を向き、北向きに建てられているそうです。
下の写真は、外拝殿になります。

下の写真は、拝殿になります。

 

 

 

 

世尊寺  

 

世尊寺は、奈良県大淀町比曽にある曹洞宗の寺院です。山号は霊鷲山、本尊は阿弥陀如来になります。

 

 

 

古くは吉野寺、比蘇寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれ、聖徳太子が建立した49ヶ寺のうちのひとつとされています。

境内に残っている東西両塔跡である礎石や瓦などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたと推測

されています。

中世には、火災などで衰退しましたが、江戸時代に曹洞宗の寺院として、霊鷲山・世尊寺と改め復興し、現在に至っ

ているそうです。
下の写真は本堂になります。

 

 

本堂の裏手には、対しお手植えの不老長寿の桜や芭蕉の歌碑が建っています。

 

 

 

いただいた御朱印には「南海夜光霊木」と書かれていました。 世尊寺は奈良時代に本尊の阿弥陀如来像と

木像十一面観世音菩薩像が光を放っていたことに由来し、「現光寺」と呼ばれ、平安時代にかけて大いに

栄えたと言われています。
日本書紀などによると、土佐の国(南海)に毎夜、雷光のように光を発する沈水香(じんすいこう)と
呼ばれる木(栴壇+せんだん)があり、これを聖徳太子が天皇に奏上、これに喜ばれた天皇が、刻ませた
のが現存する世尊寺の十一面観音立像になるそうです。
「南海夜光霊木」とはこのことを表した言葉になるかと思います。

 

壺阪寺 (南法華寺)  

壺阪寺は、近鉄吉野線壺阪山駅からバスで10分ほど、奈良県高取町にある真言宗系の寺院で、正式名称は
南法華寺になります。 山号は壺阪山、本尊は眼病に霊験があるといわれる十一面千手観音菩薩で、西国三
十三観音霊場の第6番札所になります。
寺の縁起によりますと、創建は大宝三年(703)、奈良の元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していた時、
愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりになるそうです。

仁王門は、鎌倉時代、建暦二年(1212)の建立になるそうです。

本堂八角円堂には、本尊の十一面千手観世音菩薩が安置されています。
このお堂は、八角形の形をしていて江戸時代に再建されたものになります。

本堂に隣接する礼堂は、創建当初から本尊を礼拝するために建てられたものです。
現在の礼堂は室町時代に再建されたものになるそうです。

三重塔も礼堂と同じ室町時代の建立で、重要文化財に指定されています。

寺域の山の斜面には、インド天竺渡来の高さ20mの白い大観音石像が立っています。
また、その手前には大涅槃石像があります。大観音石像は、インドハンセン病救済事業への尽力の返礼
として、インドから贈られたたものだそうです。

いただいた御朱印には、「普照殿」とかかれていました。
観音様の慈悲の光が全てのものを普く照らしてくれるお堂ということかと思います。

本堂の近くには、座頭の沢市とお里が身を投げたが観音様の慈悲の力に救われたという、「投身の谷」
と言い伝えられている谷があり、そこには沢市とお里の仲睦まじい像が立っています。
壷阪寺は、桓武天皇をはじめ、平安の昔から多くの人々に眼病に霊験あらたかな寺として信仰を集めています。
壷阪寺では、目の健康祈願、眼病封じのお札を御朱印としていただくことが出来ます。「慈眼光明
(じげんこうみょう)」とは観音様のやさしいまなざしを意味し、その光が明るく我々を照らしてくださるそうです。

 

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