楽しい御朱印めぐり

御朱印めぐりの旅

高崎・上毛地区 神社御朱印めぐり 

妙義神社・榛名神社・貫前神社・進雄神社 上毛地区神社御朱印めぐり

この記事では、群馬県高崎市から軽井沢に向かう群馬県北西部、上毛地区にある妙義神社、貫前神社榛名神社、伊香保神社、進雄神社をめぐる御朱印めぐりの旅を紹介しています。
 貫前神社  
貫前神社は、群馬県富岡市一之宮にある上野国一之宮に列せられる神社です。 主祭神に、経津主命(ふつぬしのかみ)、
姫大神(ひめおおかみ)を祀っています。   社の紹介によりますと、創建は安閑天皇の元年(531)、物部姓磯部氏が、
氏神である経津主神を祀り、現在の安中市にあたる蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりになるそうです。
大鳥居(写真上)までは表参道の石段を登っていきます。 その先に総門があります。
総門から石段を降りたところには楼門があります。
現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられたものです。江戸時代初期の漆塗り、極彩色に彩られた建物は、
国の重要文化財に指定されています。
本堂の裏手には、平将門の乱を平定した藤原秀郷が植えたという大杉(写真下)が残っていますが、
残念ながら枯れてきているとのことです。
妙義神社  
妙義神社は、妙義山の主峰白雲山(写真下)の東麓、群馬県富岡市妙義町にある神社です。
創建は、宣化天皇二年(537)と伝えられ、山岳信仰の場として栄え、かつては波己曽神と称したそうです。
江戸時代は、徳川将軍家に深く信仰され、上野寛永寺と関係の深く神仏習合が図られていたそうです。
鳥居をくぐり坂道の参道を進むと、総門(重要文化財)があります。
さらに石段を登っていくと銅の鳥居、その右手には旧本社であった波己曾社があります。
銅の鳥居から165段の階段を登った所が上部神域、その入口が隋神門になります。
さらに石段を登ると唐門があります。
唐門をくぐった正面に、拝殿、幣殿、本殿からなる本社があります。本社は、江戸時代初期の宝暦六年に建立
されたものであり、江戸時代建築の趣をもった壮麗な建物で、国の重要文化財に指定されています。
榛名神社  
榛名神社は、群馬県高崎市榛名山町にある神社です。赤城山、妙義山と共に上毛三山の一つといわれ、
榛名山の神を祀る神社です。 主祭神には、火の神である火産霊神、土の神である埴山姫神の2神を祀っています。
創建は不詳とのことですが、社の歴史紹介によりますと、927年に作成された延喜式神名帳に、上野国十二社の一つ
として位置づけられているそうです。とりわけ江戸時代は、上野寛永寺との関係が深く、寛永寺から別当が派遣され、
神仏習合の地として発展してきたようです。
山道を入ってきますと途中には、神仏習合の名残か、神社には珍しい三重塔が建っています。
さらに参道を進みますと、川の対岸には「みすずの滝」が流れています。
そして大岩をバックに双龍門が迎えてくれます。この門の扉には丸く文様化された龍の彫刻が施されている
ことから双龍門と呼ばれています。双龍門もそうですが、多くの建造物は江戸時代後期に建立されたもので国の
重要文化財に指定されています。
本殿は文化三年(1806)に再建されたものになります。拝殿には、華やかな彩色と彫刻を施されています。
本社は御姿岩に接し、岩の奥に御神体がお祀りされています。

 

本殿の左側に建っているのが国祖社及び額殿になります。国祖社は、神仏分離以前は本地仏を安置し、

本地堂とも呼ばれていたお堂です。

 

 

神楽殿は、神に奉納する神楽を演じる場所であり、本殿と向かい合い、床の高さは本殿と同じにそろえられています。

 

 

榛名神社から天神峠を越え、榛名湖を経由して伊香保温泉に向かいます。下の写真は、榛名富士と榛名湖になります。

 

 

 

伊香保神社

 

伊香保神社は、群馬県渋川市伊香保町、伊香保温泉街にある伊香保温泉を守護する神社です。

伊香保温泉のメインストリートである365段の石段を上りきった所にある神社です。

 

 

 

社の由緒によりますと、創建は天長二年(825)になるそうです。主祭神には、大己貴命、少彦名命で温泉、

医療の神様になります。

近世に入ると社号を「温泉神社」と称していたそうですが、明治時代に伊香保神社に戻されたたようです。

 

 

 

 

進雄神社  

 

進雄神社(すさのおじんじゃ)は、高崎市芝崎町にある神社です。

祭神に、速須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命の夫婦神の他24神を祀る神社です。

 

 

 

社の由緒によりますと、創建は貞勧十一年(869)、疫病蔓延、地震・津波で国内困窮の時に、清和天皇の勅掟により、

尾州(尾張)津島神社を勧請したのが始まりになるようです。 江戸時代までは「天王宮」を社号として、千百数十年に

わたり、健康と厄除の神として広く崇敬されてきたそうです。

明治初年の神仏分離令の際、それまでの社号「天王宮」はインドの祇園精舎を守護し、仏様に縁が深い牛頭天王からの

名前と云われていましたがこれを改称し、祭神にちなみ雄大に進むことを祈誓し「進雄神社」に改称したそうです。

 

 

いただいた御朱印には、速須佐之男命に退治された「ヤマタノオロチ」が押されていました。

 

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