楽しい御朱印めぐり

御朱印めぐりの旅

京都 西大路通り周辺 御朱印めぐり
地域:

若一神社・壬生寺・法輪寺 御朱印めぐり

この記事では、平清盛との関係が深い若一神社、新撰組との関係が深い壬生寺、そして通称「達磨寺」
と呼ばれ法輪寺を訪ねる旅を紹介しています。

若一神社

若一神社は、JRに西大路駅から徒歩3分程度の京都市下京区七条御所ノ内本町にある神社です。

祭神は、熊野三山に祀られている若一王子になります。光仁天皇の御代(709~782)、唐から
渡来した威光上人が紀州熊野に詣で御分霊を当地で安置したのが社の始まりになるそうです。
若一王子は、現在では天照大神と同一視されている場合が多いようです。

若一神社のあたりには、平清盛の別邸であった広い敷地を誇る西八条殿があった所で、神社の入り口には、
『平清盛公西八条殿跡』と言う石碑も建っています。

 

若一神社入り口

 

元安元年(1166)、清盛公が熊野詣に出向いた時、神のお告げを聞き、西八条殿敷地の土に埋もれて
いた若一王子の御神体を発掘し社を作ったのが当社の創建になるようです。

神社の前、西大路通り沿いには、清盛公お手植えと伝わる御神木の大楠が茂っています。

 

若一神社御神木

 

境内には、清盛公の銅像も建てられています。

 

若一神社清盛像

 

また、境内には、清盛公が高熱におかされた時、この水で冷やしたと伝わる御供水、その横には一時、
清盛公の寵愛をうけた“祇王”の「萌出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」
という、人の世の無情をうたった歌碑が立っています。

 

若一神社祇王歌碑

 

若一神社朱印

 

 

壬生寺

壬生寺は、阪急京都線の四条大宮駅から徒歩7分程度の京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院です。
なお律宗の総本山は、奈良の唐招提寺になります。また本尊は、延命地蔵菩薩像になります。

寺の歴史によりますと、正暦二年(991)に三井寺の快賢僧都によって創建され、古い名を地蔵院、
宝幢三昧寺などと号したそうです。

壬生寺本堂

江戸時代の終わりに京都の治安維持にあたった新撰組の本拠が壬生寺の近くに置かれたため、当寺
境内では新選組の訓練が行われていたそうです。新撰組ゆかりの寺であり、境内には局長の近藤勇の
銅像、また壬生塚には、新撰組隊士の墓塔があります。

壬生寺新撰組

壬生寺塚

境内には、千体の石仏を円錐状に安置した千体仏塔をはじめ、三千体もの石仏がまつられています。

壬生寺千体仏

壬生寺の本尊は延命地蔵、いただいた御朱印には「地蔵尊」と書かれていました。

壬生寺朱印

法輪寺

法輪寺は、JR嵯峨野線円町駅から徒歩3分程度の下立売通り沿いにある臨済宗妙心寺派の寺院です。
創建は享保十三年(1718)、本尊は釈迦如来になります。

法輪寺には、三国最初随一といわれる“起き上がり達磨”をはじめ、奉納された八千体にも上る達磨
が祀られていて、通称「達磨寺」と呼ばれ
親しまれています。

 

法輪寺入り口

 

寺の縁起によりますと、昭和に入り第十代住職伊山和尚が「白隠和尚全集」を刊行され、とりわけ
起き上がり達磨禅を広め、「起き上がり小法師」をもって禅の大衆化をはかられたそうです。

インドに生まれた達磨大師は、西暦527年に中国に渡り、小林寺において手も足もなくなったといわ
れるような忍苦の修行をされ、禅宗の開祖になったそうです。

日本においては、この達磨大師の「貧禍厄病を転じ福を得ん」という精神を、七転八起の”起き上がり達磨”
に姿を変え、日本独特の達磨に発展したのだそうです

法輪寺によりますと、「七転八起」は、倒れても転んだ力の大きさで自力で起き上がる力、自然体で苦にも
めげず楽にもおごらない、この姿が達磨の本質だそうです。
法輪寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場だそうです。

達磨堂には、起き上がり達磨をはじめとした数多くの達磨が祀られています。

 

法輪寺達磨堂

 

本堂の隣にある衆聖堂には、樟一本造りの大達磨立像など八千体にも上る達磨が奉安されています。

 

法輪寺衆聖堂

 

衆聖堂の天井には、樋口文勝の筆により達磨が描かれていて、賛として『不倒』と書かれています。

 

法輪寺衆聖堂内

 

釈迦如来が祀られる本堂の庭は、名石が並ぶ見事な枯山水になっていました。

 

法輪寺庭

 

いただいた御朱印には、達磨の教え「不倒」と書かれていました。

 

法輪寺朱印不倒

ページトップ