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東京 新橋・芝・高輪 御朱印めぐり

烏森神社・愛宕神社・増上寺・泉岳寺 御朱印めぐり

 

東京新橋から芝、高輪にかけては、現在はサラリーマンの街、オフィス街になっていますが、江戸時代は東海道の発展共に賑わってきたところで、歴史に名を残す社寺も多いところです。

本記事では、汽笛一声新橋駅前”烏森神社”からスタートし愛宕の山に鎮座する”愛宕神社”、芝”増上寺”などを経由し、四十七士の墓所、高輪”泉岳寺”にかけての寺社をめぐる御朱印めぐりの旅を紹介します。

 

烏森神社

 

烏森神社は、東京、新橋駅前に鎮座する神社です。

 

烏森神社 参道

 

平将門の乱を平定した藤原秀郷(火を噴くムカデを眉に唾しながら退治したという
“眉つば”の語源で有名な俵藤太)がその帰り、夢に現われた白狐の「神烏の群がる所に
霊地がある」というお告げを聞いたそうです。そして桜田村の森まできたところ、夢と
同じように烏が群がっていたので、ここに社頭を造営した(940年ごろ)のが烏森神社
の起こりだそうです。

 

烏森神社

 

主祭神には、倉稲魂命・天鈿女命・瓊々杵尊が祀られていて、商売繁盛、健康や家内安全、
その他幸福守護にご利益があるそうです。

いただいた御朱印は、カラフルなものです。四隅に左三つ巴紋の赤、青、黄、緑の印が
あざやかに押されています。
聞く所によりますと、赤は良縁・縁結び、青は仕事運や学業運、黄色は金運や商売繁盛、
緑は健康運や安全運を表しているそうです。

 

朱印 烏森

 

古代の宝器であった勾玉が巴形であったためか、全国の八幡宮を始め神社の社紋に
多いのが三巴紋です。中央には、”神烏”の神紋が押されています。
烏は、今は嫌われものの代表のようになっていますが、昔は、神様のお使いです。
神武天皇を大和へ導いた熊野大社のヤタ烏は日本サッカー協会のシンボルマークに
採用されています。

 

虎ノ門 金刀比羅宮

 

虎ノ門金刀比羅宮は、烏森神社から徒歩10分程度、港区虎の門にある琴平タワーという
オフィスビルの敷地内に境内を構える神社です。
社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失しましたが、戦後、再建されています。

 

虎の門金毘羅宮本殿

 

社の由緒によりますと、万治三年(1660)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、
その領内に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に
勧請したのが始まりになるそうです。
当時は“金毘羅大権現”と称しましたが、明治の神仏分離令により金刀比羅宮に社号
を改称し現在に至るそうです。

主祭神は、讃岐の本宮と同じ、大物主神と保元の乱で讃岐に流された第75代天皇で
ある崇徳天皇になります。大物主神とは、大国主神の異称とも言われる神で、
「神々の中でも最も偉大なる力を持つ神」という意味の神名だそうです。
農業・殖産・医薬・海上守護の神として古くから御神徳を仰がれている神様です。

 

虎の門金毘羅神社朱印

 

 

 愛宕神社

 

愛宕神社は、金刀比羅宮から徒歩10分程度の港区愛宕にある神社です。
東京23区内では、自然の山としてはもっとも標高の高い(26m)、鉄道唱歌にも
歌われる愛宕山山頂
にあります。
社の歴史によりますと、創建は慶長8年(1603)、江戸に幕府を開く徳川家康の
命により防火の神様として主祭神に火の神である火産霊命(ほむすびのみこと)
祀ったことに始まります。
社殿は、江戸時代の大火や関東大震災、それに東京大空襲により焼失、戦後再建
されたものになります。

 

愛宕神社

 

入口の大鳥居から社殿に向かって真っすぐ伸びる急な石段(男坂)は曲垣平九郎
の故事にちなみ『出世の階段』と呼ばれています
。(写真下)

 

愛宕神社の階段参道

 

落語でもおなじみのように、三代将軍徳川家光の時期、家光が芝の増上寺参拝の帰り、
愛宕山の梅花を騎馬でのぼって折ってくるツワモノを求めたが、皆落馬した中、曲垣
平九郎という高松藩出身の武士が見事成功、馬術の名人として称えられ、尾張藩に高
禄でめしかかえられたということです。

 

芝愛宕神社朱印

 

 

増上寺

 

 増上寺は、愛宕神社から徒歩10分程度、港区芝公園にある浄土宗の大本山になる寺院です。
山号は三縁山、本尊は阿弥陀如来になります。

下の写真は、都営地下鉄の駅名にもなっている「大門」になります。

 

増上寺 大門

 

寺の歴史によりますと、開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開
かれ、室町時代から戦国時代にかけて、浄土宗の東国の要になっていたそうです。

そして徳川家康が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が
選ばれ、大きく発展してきたそうです。
境内には、6人の徳川将軍とその正室と側室の墓所(写真下)が設けられています。その中には、14代
将軍家茂の妻、皇女和宮も含まれているそうです。

 

増上寺 徳川家墓どころ

 

 

太平洋戦争の空襲により本堂や五重塔など多くの建物が消失しました。下の写真は、
再建された本堂(大殿)になります。

 

 

増上寺 大殿

 

唯一、三解脱門だけが江戸の初期に大造営された当時の面影を残していて、国の重要
文化財に指定されています。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」
を解脱する門、いわゆる三門になります。

 

増上寺三門

 

いただいた御朱印には、本尊の“阿弥陀如来”と書かれています。おりしも参拝したのは、
浄土宗の宗祖である法然上人の八百年大遠忌の年、その印が押されていました。

 

増上寺朱印

 

 

大殿に向かって右手には、安国殿があります。安国殿には、恵心僧都の作と伝わる黒本尊
(阿弥陀如来)が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重
なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像だそうで、勝運・厄
除けの仏様として、広く人々の尊崇をあつめているようです。

 

増上寺 安国殿

 

 

こちらでは、“黒本尊”の御朱印をいただくことができます。

 

増上寺 黒本尊朱印

 

 

安国殿の脇には、西向観音堂(写真下)があり、鎌倉時代作の西向聖観世音菩薩が安置されています。
西向観音は、江戸33観音札所の第21番霊場にあたります。

 

増上寺 西向観音

 

 

こちらでは、“西向聖観世音”の御朱印をいただけます。

 

 

増上寺 西向き観音朱印

 

 

西向き観音の周辺には、千躰子育地蔵が並び風車と共にやさしい穏やかな景観を作っています。
これは子育て安産に霊験あらたかという西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い、信者
から奉安されたものだそうです。

 

増上寺 千躰地蔵

 

 

 

芝大神宮

 

芝大神宮は、増上寺から浜松町駅の方向へ徒歩5分程度の港区大門にある“芝神明”とも呼ばれる神社です。

 

芝神宮鳥居

 

明治初年、明治天皇が東京の鎮護と万民の平安を祈願し准勅祭社として定められた東京近郊の10社、いわゆる東京10社の一つに数えられる格式の高い神社です。
祭神として、伊勢神宮の祭神、天照皇大御神、豊受大神の二柱を祀っています。

 

芝神宮

 

社の由緒によりますと、創建は、平安時代の寛弘2年(1005)と古く、鎌倉時代は源頼朝の信仰や徳川時代は幕府の保護を受け、大江戸の“大産土神”また「関東のお伊勢さま」として、篤く崇拝されていたそうです。

 

芝大神宮朱印

 

 

泉岳寺

 

泉岳寺は、地下鉄泉岳寺駅から徒歩2分程度、港区高輪にある曹洞宗の寺院で、赤穂浪士の墓所として有名な寺院です。山号は萬松山、本尊は釈迦如来になります。

 

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寺の歴史によりますと、泉岳寺は慶長17年(1612)に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を
拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。
しかし寛永18年(1641)の大火によって焼失、現在の高輪の地に移転してきたそうです。

 

泉岳寺

 

時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・
水谷の五大名に命じ、泉岳寺の再興をはかったそうで、浅野家と泉岳寺の付き合いは
この時以来のものになるそうです。

 

泉岳寺本堂

 

主君への忠義を尽くし、潔く散った47人の赤穂義士、今でも多くの人の共感を呼び、
参拝者が絶えないとのことです。下の写真は、四十七士の墓所になります。

 

四十七士墓前

 

いただいた御朱印は、本尊“釈迦如来”と書かれています。また、『四十七士廟所』
記されていました。

 

四十七士墓前

 

泉岳寺朱印

 

 

 

 

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