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御朱印めぐりの旅

京都 御寺 泉涌寺 御朱印めぐり
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泉涌寺 御朱印めぐり  

 

この記事では、京都市東山区にある皇室との関係が深く、御寺(みてら)と呼ばれる泉涌寺、
そして泉涌寺の塔頭寺院をめぐるの御朱印めぐりを紹介しています。

泉涌寺

泉涌寺 は、JR,京阪電車の東福寺駅から徒歩10分程度の京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派
総本山の寺院です。山号は東山、皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれています。
本尊は、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三尊になります。
下の写真は、泉涌寺入口になる総門になります。

寺伝によれば、弘法大師空海が天長年間(824-34)ここに草庵を結び、法輪寺としたのが起こりだそうです。
そして1218年に月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き出たことに由来し、泉涌寺と改められたそうです。
仏殿の近くには、寺名の元になった泉がいまもわき出ており、泉涌水屋形が建てられています。

皇室の当寺に対する帰依は篤く、1242年、四条天皇崩御の際は、当山で葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営
されています。 その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る
歴代天皇・皇后の葬儀が当山で執り行われ、山稜が境内に設けられ、皇室の菩提寺として「御寺」と尊称
れるようになったそうです。
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降の建立のものだそうです。
大門(写真下)から境内に入りますが、大門(重要文化財)は江戸時代に造営された御所の門が移築されています。

大門から参道を下って正面の仏殿(写真下)は1668年に再建されたものです。
本尊の過去・現在・来世を表す、運慶作と伝わる釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像が安置されています。

下の写真は、仏殿に隣接する舎利殿になりますが、舎利殿も同時期に再建されたものになります。
こちらには、お釈迦さまの“歯”が安置されているそうです。

泉涌水屋形の隣には、清少納言の『夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』の歌碑があります。
“中国の故事では、関守も眠っている深夜、一番鳥の鳴き声をまねて函谷関の関を開けさせて逃げ延びた武将がいるそう
ですが、私の逢坂の関は絶対に開きませんよ”と強い女の心を詠んだ才女の歌として知られています。
清少納言は晩年を現在の泉涌寺のあたりで暮らし、彼女が仕えた中宮定子の眠る御陵を拝しながら生涯を終えたという
ことです。

舎利殿の先にある霊明殿には、天智天皇から昭和天皇までの天皇、皇后の位牌が安置されています。
黎明殿に隣接する御殿(御座所)は、公開されていて拝観ができ、玉座の間などを見ることができます。
下の写真は、見事な御座所庭園になります。

御朱印は、御殿(御座所)に隣接する寺務所の方でいただきます。 こちらでいただいた御朱印は4つです。
一つは、皇室菩提寺としての御朱印です。菊紋が立派に大きく押印され、香を焚き花を供える場所、という
意味の「皇室香華院」の印、そしてその場所である「霊明殿」と書かれています。
そして最後に「みてら」と記されています。

二つ目は、京都十三仏第6番としての「弥勒菩薩」の御朱印です。

三つ目は、大門をくぐってすぐ左にある“楊貴妃観音堂”(写真下)でいただいた御朱印です。
中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置されており、像容の美しさから、玄宗皇帝が
亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきたそうです。

 

なお泉涌寺では、塔頭である善能寺の御朱印、「聖観音」(洛陽十八番札所)の御朱印もいただくことができます。

雲龍院

雲龍院は、泉涌寺の別院であり、真言宗泉涌寺派の別格本山になる寺院です。
山号は瑠璃山、本尊は薬師如来三尊像(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)になります。

創建は、応安五年(1372)後光厳天皇により建立され、後に(1389)、御円融天皇が龍華殿を建立し、
如法写経を始められ、以来、写経道場として信仰を集めてきたそうです。
本堂、龍華殿(写真下)では、現在も随時、写経が行われています。

また本堂の横には霊明殿が建立されていて、ここには北朝歴代の御尊牌などが奉安されています。

書院悟之間の丸窓は、「悟りの窓」と呼ばれています。

中庭に面する蓮華の間の4つの障子窓は、左から椿、灯籠、紅葉、松が見えるように作られています。

いただいた御朱印には、本堂の名称である「龍華殿」と書かれていました。

今熊野観音寺  

今熊野観音寺は、泉涌寺の塔頭の一つで、西国三十三所観音霊場の第15番札所になっています。

寺の縁起によりますと、弘法大師空海が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を
修法されていたときに熊野権現のお告げを聞き、お告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面
観世音菩薩像を刻まれ、奉安されたのが当山のはじまりだそうです。
この観世音菩薩像は本尊(秘仏)としてまつられています。
後白河上皇が永暦元年(1160)、新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と
称するようになったそうです。

 

下は、弘法大師を祀る大師堂になります。

御朱印には、『大悲殿』と書かれています。大慈大悲の観世音菩薩がおられるお堂ということです。
「人々の悲しみをくみ取って何とかしてあげようと言う観音様の慈しみの心」の心が書かれているわけです。

戎光寺

戎光寺は、丈六釈迦如来像を本尊とする泉涌寺の塔頭寺院です。

戎光寺の創建は鎌倉時代の安貞二年(1228)、後堀河天皇の勅願所として猪熊八条の地に巨大な伽藍を持つ
戒律復興の道場として建立された戒光律寺が始まりになるそうです。 本尊の釈迦如来立像(重要文化財)は、
一丈六尺の倍近い総高約10mの大像で、運慶、湛慶父子の合作になるそうです。

いただいた御朱印には、「丈六殿」と書かれていました。

法音院

法音院は、鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建された寺だそうです。
本尊は不空羂索観音で、洛陽三十三観音霊場、第25番札所になっています。

いただいた御朱印には、「大悲閣」と書かれていました。

即成院

即成院は、泉涌寺の入口になる総門の前に建つ泉涌寺の塔頭寺院です。 山号は光明山、本尊は阿弥陀如来になります。

本堂内には、木造阿弥陀如来を中心に、観音菩薩像と勢至菩薩像をはじめとする二十五菩薩像がひな段状に安置され、
現世極楽浄土ともよばれているそうです。 これは、阿弥陀如来と25体の菩薩が、亡者を西方極楽浄土へ導くさまを
表現したものになるそうで、大変珍しい貴重なものになるそうです。

いただいた御朱印には、「阿弥陀如来」と書かれていました。

なお境内には、那須与一の墓もあります。

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