楽しい御朱印めぐり

御朱印めぐりの旅

出雲大社・神話の国 御朱印めぐり

出雲大社・日御碕神社・美保神社・八重垣神社 御朱印めぐり

古代出雲は、一説には北陸地方にも影響を及ぼした一大勢力であったと言われます。そして大和王権に下る事になり、それが「国譲り」神話として日本書紀などで取り上げられているわけです。またその交換条件として建立されたのが出雲大社となるわけです。

出雲大社の他にも日本創生の神話に関係する神社が数多くあるのが出雲地方の特徴であり、古代日本において出雲地方の影響力が大きかったことがしのばれます。

今回はレンタカーで、出雲大社をはじめとして、出雲地方に広がる主だった神社を巡ってきました。

出雲大社

出雲大社は、八雲山を背にした森の中に立つ、荘厳かつ神秘的なたたずまいを見
せる神社です。正式名称は「いずもおおやしろ」ですが、一般には「いずもたい
しゃ」と呼ばれています。

出雲大社鳥居

日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社
で、主祭神はあのサメに赤裸にされた因幡の白ウサギを助けた伝説でも有名な大
国様、すなわち『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』です。

出雲大社因幡の白ウサギ

大国主大神が築いた国土は、すべてのものが豊かに成長する所で、「豊葦原瑞穂
国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれていました。
「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神にこの瑞
穂国を譲り、その時に交換条件として造営された天日隅宮(あまのひすみのみ
や)が出雲大社の始まりといわれています。
またこの時、天照大神は第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせ、天穂日
命の子孫は代々「出雲国造」と称し、出雲大社宮司の職に就いていて、現在は84
代目になるそうです。

 

出雲大社拝殿

 

拝殿(写真上)は、1959年に新築されたもので、戦後最大の木造建築物になります。
拝殿の大注連縄は、長さ6.5m、重さは一tになるそうです。
なお一般的な神社の参拝作法は「二拝、二拍手、一拝」ですが、出雲大社では、
「二拝、四拍手、一拝」になります。

拝殿の後ろに回ると“八足門”(写真下)があり、ここから本殿に正面から参拝でき
ます。一般の参拝は、ここまでとなります。

 

出雲大社拝殿奥

 

“神在月”(10月)には、全国から八百万の神がここに集まり、男女の縁になどに
ついて会議をすることから、“結びの神様”とされている出雲大社、この日も若い女
性たちで賑わっていました。

 

出雲大社本殿全景

 

本殿(写真上)は、江戸時代中ごろに建てられたもので、高さはおよそ24mもあ
りますが、昔の本殿は、現在よりもはるかに高く48mもあったそうです。
厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には長さ7.9mの二組の千木が交差してかかっている
のが印象的です。

 

出雲大社新本殿2

 

2013年は、60年に一度と言われる式年遷宮の年、上の写真は屋根などの大改修が
終わった新しい本殿になります。

 

出雲大社朱印

 

境内を西の門から出て川を渡ったところに神楽殿があります。本殿と同じように
朝夕のお祀りの他、御神楽や御祈祷が奉仕される所です。ここに掛かる注連縄は
長さ13メートル、重さ5トンの巨大なものです。

出雲大社神楽殿2

なお神楽殿でも御朱印 をいただくことが出来ます。

出雲大社神楽殿朱印

稲佐の浜

出雲大社から西へ一キロほど行った所に、「国譲り」の舞台となった“稲佐の浜”が
あります。高天原の使者がこの浜に剣を立てて大国主大神と国譲りの談判をした
といわれているところです。渚には弁天島が浮かび、海岸の景観を引き立てています。

また稲佐の浜を見下ろす高台には“出雲阿国”終焉の地として、阿国追悼の碑が建っています。

出雲阿国公園

日御碕神社

日御碕神社は、出雲大社から車でおよそ30分、島根半島の西端にある日御碕に
ある神社です。伊勢神宮が日本の昼を守り、日御碕神社が夜を守るのだそうです。

日御崎神社全景

日御碕神社門

下の本社、日沈の宮に天照大神を祀っていて、創建は天暦2年(948)になります。

日御碕本殿

上の本社、神の宮には、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀っていて、創建は
安寧13年(紀元前536)になるそうです。

日御碕神社脇殿

現在の社殿は、徳川将軍家光の命により建てられたもので、朱塗りの精巧な権現
造り、400年近い時が過ぎていることになります。

日御碕朱印

日御碕神社からさらに数百メートル、ドライブウエーを進むと日御碕灯台になります。

日御碕灯台

佐太神社

 

国道431号線を松江方向に1時間ほど行くと佐太神社に到着です。
佐太神社は、松江市の北になる鹿島町に鎮座し、出雲の国二の宮に列せられる神社です。

佐太神社全景

創建は、養老元年(717)と言われ、大社作りの本殿が三殿並立する形式をとっている。
現在の社殿は、江戸時代に建てられたそうですが、三殿が並立し、おごそかにた
たずむ様子は、創建当時そのままの雰囲気を保っています。

佐太神社

佐太神社本殿

本殿三社に計十二柱の神々を祀っていますが、主祭神 佐太大神は出雲国で最も尊
いとされる四大神の内の一柱で、猿田彦大神と御同神です。

佐太神社朱印

美保神社

 

美保神社は、島根半島の東端、松江市美保関に鎮座する神社です。

主祭神に大国主神の子である事代主神(コトシロヌシノカミ)と大国主神の后で
ある三穂津姫命を祀っています。事代主神は、“えびす神”として、商売繁盛の神徳
のほか、漁業・海運の神として尊崇され、美保神社は、全国にあるえびす様の総本
として信仰を集めています。

美保神社1

創建は、社の由緒に神代とありますが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神
社台帳に記載されていて、古社であることは間違いありません。

美保神社拝殿

本殿(写真上)は、大社作りの2棟を並立させた独特のもので、“美保造り”と呼ば
れていて、現在の本殿は江戸時代中ごろに建てられたものだそうです。

美保神社朱印

なお、美保神社のさらに東側、半島の東端には“美保関灯台”があります。

美保岬灯台

八重垣神社

八重垣神社は、松江市の南方の山沿いにある神社です。主祭神に“やまたのおろ
ち”を退治したと言われる素盞嗚尊(スサノヲノミコト)と稲田姫(クシナダヒ
メ)の夫婦神を祀っていて、縁結びの神社
として知られています。

八重垣神社入口

狼藉を繰り返したため、姉の天照大神から高天原を追放された素盞嗚尊が降り立
ったのがこの地;出雲、ここに毎年一人ずつ娘をさらって食べると言う“ヤマタノ
オロチ”という大蛇に狙われ悲嘆にくれる稲田姫がいたわけです。
素盞嗚尊はこの大蛇に秘策を駆使して立ち向かい、見事大蛇を退治しました。
その大蛇の尾から出てきたのが三種の神器の一つ“草薙ぎの剣”になります。
その後、素盞嗚尊は、稲田姫と出雲の須賀の地に宮を建て、穏やかに過ごしたそうです。

ちなみに、草薙ぎの剣は巡り巡って現在は、名古屋の熱田神宮にお祀りされてい
ますが、実物は、安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだとも言われています。

八重垣神社本殿

境内にはツバキの木が多く、中でも二本の木が地上でくっつき一本になってしま
った不思議な木が数本あり、一心同体、愛の象徴“夫婦椿”として神聖化されています。

八重垣神社夫婦椿2

稲田姫が自分の姿を映したと言われる“鏡の池”は、社務所で売られている薄い半紙
に硬貨をのせ、それを池に浮かべて、早く沈むほど良縁に恵まれるという占いが
あり、私が訪れた日も女性たちが池に硬貨を浮かべていました。

八重垣神社池占い

八重垣神社朱印

神魂神社

神魂(かもす)神社は、八重垣神社からほど近い松江市大庭町にある神社で、
主祭神に伊弉冊大神(いざなみ)、伊弉諾大神(いざなぎ)を祀っています。
社伝によりますと、当社は出雲大社より古く、出雲国造の大祖天穂日命がこの地
に天降って創建したものと伝えられています。

本殿は、日本最古の建築様式である天地根元造の形態を有する大社造りで、大社
造りとしては日本最古のもので、国宝に指定
されています。
なお現在の社殿は、天正11年(1583)に再建されたものがいまに続いているそうです。

神魂神社全景

神魂神社朱印

須我神社

 

須我神社は、八重垣神社から車で50分ほど、島根県雲南市にある神社です。

須佐之男命がヤマタノオロチを退治した後、妻の稲田比売命と住む土地を探し、
ここに来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿
を建てられた。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれています。

またこの時に須佐之男命が詠んだ歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣
つくる その八重垣を」が、日本初の三十一文字の和歌ということで、和歌発祥
の地“
とされています。

さらにはこの歌にある“出雲”が、出雲と言う国名の起源になるそうです。

須我神社本殿

いただいた御朱印には、“日本初之宮”と記されていました。

須我神社朱印

須佐神社

須佐神社は、須我神社から西へ車で30分ほど、出雲市の南方に鎮座する神社で、
主祭神には、社名にもなっているように須佐之男命を祀っています。
全国には、須佐之男命ゆかりの神社が数多くありますが、ここは唯一須佐之男命
の御魂を祀る神社と言うことです。

須佐神社入り口

須佐神社拝殿

社殿の後ろ側には、樹齢1200年とも言われる大杉が、力強く立っていました。

須佐神社大杉と本殿

須佐神社朱印

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